| 春日居町・鎮目の空襲 A |
| * 被災者たちの声 あの夜、夫(秀一)は勤務先の岡部尋常小学校で宿直をしており、家にいたのは私と父 (滋平)、母(きよ)それに小学校5年生だった貴子と前の年に生まれたばかりの紀子の5人でした。空襲警報のサイレンが鳴ったので、父も当時、岡部村役場の助役をやっていたので、すぐに支度をして役場にとんで行きました。家には女ばかり残されて心細い思いでした。家も二階建ての大きな家でした。下の表側が玄関と八畳間につづいて十畳間が3つあり、中仕切りの裏側にもそれと同じような畳の部屋がありました。 本当に大きな家で父も自慢にしていたものです。この家が建てられたのも、父が若い時から台湾へ行き、向こうで教員をしており、昭和11年に帰ってきて、12,13年の2年がかりで、石和の大工さんに建ててもらったものでした。だから私の家は当時から「台湾さん」と呼ばれていたものです。今はもうそんなことを知っている人も少なくなっているでしょうがね。 母は一宮の坪井の出身の人で、やはり教員をしていました。私が小学校へ入る年に両親は台湾へ行ったと思います。ですから私はじいちゃん、ばあちゃんに育てられ、小学校のあと、東京の女子専門学校へ入ってから、両親に会いに2度ばかり台湾へ行ったことを覚えています。えらい昔話になりましたが。私も東京から帰ってきて教員になり、今の石和高校が石和蚕業学校なんていわれていた時分、家庭科を教えていました。ひとり娘でしたから石和の広瀬の出身の夫を迎え、昭和9年に結婚しました。22歳でした。 2人の子供も生まれ、家には石和の松本からお手伝いの子もきており、幸せな暮らしをしていましたが、食べ物には苦労していました。あの空襲の日も、フスマ(小麦粉のかす) のダンゴを母と作っていた記憶があります。何故そんなことまで覚えているかというと、あの日にかぎって、お手伝いの子を松本の家に帰してやり、家族だけだったせいかもしれません。 夕食のあと何をしていたかまでは覚えていませんが、サイレンが鳴って父が独特のカーキ色の服を着て出掛けていきましたが、父もあわてていたのか、時計も財布も置き忘れていったことがあとでわかりました。父の指図があったかのかどうか、母はバケツに水をくみ並べはじめ、私は紀子をおんぶし避難する準備をしていました。小学生の貴子は、学校で教えられていたように、防空ズキンをかぶり母の手伝いをしていたようでした。 間もなく大きな「どーん」という音がして庭のほうが一瞬明るくなりました。表側のガラス戸から外を見てみると、庭のカボチャの棚が燃えていました。爆弾が落ちたんだとわかり、私は紀子をおんぶしたまま、母が貴子の手を引いて4人で、庭の隅にあった防空壕に逃げ込もうと外に出ました。玄関を出たところ「空襲だ、空襲だ、危ないからみんな家のなかに入っていろ」といって、表の通り(国道140号)を大きな声で叫びながら自転車で走っている人がいました。 そこで4人はまたいったん家のなかに入りました。すると奥座敷のほうでぱちぱち音がしてまっ赤に燃えていました。これは大変なことになったと思い、敷いてあった薄いフトンに母が汲んでおいてくれたバケツの水をかけ、紀子の上にかぶせ、母と貴子のズキンにも水をかけてまた外に逃げ出しました。 庭に作ってあった防空壕のなかに逃げ込みました。あのころは、どこの家にも庭に防空壕というものが作ってありました。防空壕といっても、畳1,2畳分の土を1メートルくらい堀り、回りに柱を立て、その上にトタン板などのせ、さらに土をかぶせた簡単なものでした。ともかくこの中に逃げ込みほっとする間もなく、貴子が「カバンを忘れた。私とりにいってくる」と、私たちが危ないからと、止めるのもきかず、母の手を振り切って玄関から家のなかに入っていきました。これが貴子の姿を見た最後でした。 貴子の帰ってくるのを待つ私の目に、その時、空からまっ赤に落ちてくるものが見え大きな音が私の鼓膜を破ったような感じでした。そのあと、どこをどう逃げ歩いたのか、いつも親しくしていただいた若月さん(現在の鎮目辰也さんの付近にあった家)の所にいたのでした。急に降り出した大雨のなかを逃げ歩いていたので、体中びっしょりでしたが、背中の紀子も母も無事でした。 目の前ではあちこちの家が燃えていました。まさかこんな田舎の村まで、空襲にあうなんて思いもしなかったのに、戦争は本当にこわいものだとしみじみ思いました。夜明けを待ってとぼとぼ家に帰って来ました。見るも無残に家は焼け落ち、大雨で火は消えていたものの、まだくすぶっていました。 2階建ての家はがらがらと焼け落ちていまさたが、道路わきに建ててあった物置き小屋だけはかろうじて残っていました。近所の人たちや、消防団の人たちが来てくれて家のかたずけが始まり、貴子は玄関口のところでカバンを背負い、うつ伏せになり、学校で教えられていたように、両手で顔をかくすようにして亡くなっていました。もうちょっとで外に出られたのにと思うと、かわいそうでどんなに泣けたかわかりません。 お葬式は次の日にやったと思います。親戚や村のひと、それに近所の人たちが、おくやみに1円、5円、10円と持ってきてくれました。几帳面だった父が、その時の見舞いのことを和紙に書き留めて置いてくれたものが今も残っています。あんな騒ぎのなかだったのに皆様のお見舞いがどんなにうれしかったかしれません。近所の人の人たちからは、布団や衣類までもらい物置き小屋での生活がはじまりました。 焼けた家のなかには、のちに小説家せ有名になった石和の深沢七郎さんの衣類や布団がありました。光澤さんとは、私の父が従兄弟でしたので、当時東京にいた深沢から「鎮目の家は大きいから預かってください。そこなら空襲もないでしょうから」といわれ預かったものでした。大切なものがあったかどうかは分かりませんが、あとで、空襲にあったことを話すと大変がっかりしていたようです。 死んだ貴子は、わたし がいうのもなんですが、かなり利口な子供でした。イノシシ年で向こうみずなところもありましたが、いつも副級長をやっていました。級長は松本の三枝さんという子で、この子には勝てなかったようです。 あの空襲の日のことで一つ思い出すことがあるのです。それは貴子が学校から帰ってきたあと、いつも仲良くあそんでいた隣りの、平岡美春ちゃんと一緒にかねのローソク立てを買ってきたのです。あのころ、このへんには子供のおもちゃを売る行商のおじさんがいてその人から買ってきたと言っていました。私が「そんなものは仏壇で使うもので、おもちゃにするもんじゃありませんよ」といったところ、二人はそれを仏壇にもっていったようでした。なんであんなものを買ってきたのか、なにかの因縁といったものでしょうか。 それに二人とも死んでしまうなんて、いまでもあの買い物のことが思い出されてなりません。その後、あの子には貴法童女という戒名もつけ、保雲寺の墓に小さいおじどうさんを立ててやりました。えらい昔の話しになりましたが、あんなおもいはもう二度としたくないですね。両親も夫も亡くなり、いまは二女の紀子夫婦と孫たちとともに、楽しい毎日を送っており、私もゲートボールを楽しみながら元気にやっておりますが、空襲の日のことは、一日として忘れたことはありません。 |
| 焼け残った鎮目美子さん方の柿の木 |