春日居町・鎮目の空襲D

 「おばさん助けて」と言われたけれど・・・・       萩原中子
 あのころ私の家の家族は、両親と私たち夫婦と長女、それに夫の妹が2人の計7人でした。しかし、私のおなかには2人目の子供が7カ月になっていましたので、7人プラス1人といった状況でした。おなかが大きくて本当に大変な時でしたので、空襲のときのことはよく覚えています。
 あの日、夫と両親は、近くの萩原利男さんの家のお田植えの手伝いに行っていました。帰ってきて寝ようとしているところへ、サイレンがなり、お蔵にいたおかあさんからも起こされて逃げる準備をしていました。すると、斜め前に家があった高野団次さんというおじさんが「空襲だ、みんな平等川のほうへ逃げろ」と、前の道で騒いでいました。
 私は2歳3ヵ月だった長女の勝子をおぶい、はんてんを着て、頭にザブトンを一枚載せて家を出ました。最初、家の前にあった妙厳院の防空壕のなかに入ろうとしたところ、すでに一杯で、しかたなく平等川のほうに逃げていきました。
 すると、うしろから平岡さんの娘が火だるまになって走りながら、「おばさん助けて」と声をかけてきました。しかし私も、おなかが大きいうえ、うしろには赤ん坊をしょっており、片手には荷物を持っていたので、「助けてやりたいけど、おばさんにはどうすることもできんじゃん、早く川へはいれし」と声かけてやりました。
 あの光景はなんともいいようがない、地獄絵でした。そこえあとからきた男の人がかかえるようにして保雲寺橋の下へと連れていきました。その男の人は平岡商店のおじさんだったと思います。私も橋の下へ降りようとした時すべり落ちてしまい、ひどい目にあいました。橋の下では、みんなで平岡さんの娘のケガの手当てをしたり、励ましあったりしていました。
 そのうち大雨が降ってきて、川の水かさも増し、橋の下からも逃げるほかなくなりました。堤防に上がってみると、雨のおかげで、あちこちで燃えていた火も下火になっていました。ぼつぼつと帰る人も出ていたので、私もザブトンを頭にかぶって小雨のなかを家へと向かいました。帰ってみると、母屋は焼け落ち、お蔵だけ残っていました。
 このお蔵には、遠縁で横浜の鶴見から疎開してきた、小林さんという一家4人の親子が住んでいました。家の人たちもそれぞれ逃げ帰ってきて、ほっとしましたが、住むところがないため、お蔵の半分をあけてもらい、ここで家族7人の生活が始まりました。そのお蔵の近くにも爆弾が落ちて、お蔵の重い戸の一枚がおよそ30メートルも離れた道祖神さんのところまで吹き飛んでいたのにはびっくりしました。
 あの空襲さわぎのなかで、嬉しかったのは、次の日に私の実家の勝沼の下岩崎から、17歳だった高校生の弟が見舞いに駆けつけてくれたことでした。弟は甲府の空襲を見に行くつもりで家を出てきたところ、途中で鎮目もやられたと聞いて、歩いて来てくれたものでした。まったくの一夜乞食でいたところへ、肉親が来てくれたことは、なんともいえない感激でした。
 着の身着のままで焼け出されたと知って、間もなく今度は父と弟とが、リヤカーいっぱいに着るものや、食べ物を積んで持ってきてくれました。あれも嬉しかったです。この土地へきて4年目のことでしたので、心細い思いもしている時でしたから、なおさら身にしみたものでした。
 あの年の10月には、おなかの赤ちゃんも無事に生まれました。それが長男の正巳です。あれから49年もたってしまいましたが、あのころのことは、いまでもはっきりと頭のなかに残っております。いまでもお蔵はそのまま残っています。戦争の傷あとの尊い記念物だと思っております。

 「かわいそうだった牛や山羊」・・・・・             高野秀子
 あの頃の私の家の家族は、父親の団次、母親の光(てる)、夫の雅夫、夫の妹の幾久江、それに私と息子の光幸の6人でした。空襲の日のことは、77歳のいまになってもよくおぼえています。一生のうちであんな怖い思いをしたのはあの時でしたから。
 光幸があの年の2月6日に生まれたばかりで、私たちは2階に寝ていました。あの日は3俵地というところのお田植えが終わった日で、家族はみんなぐっすり寝ていました。下で寝ていた父親が、騒ぎを聞きつけて皆なを起こしてくれました。私が2階の窓をあけてみると、笈形山の上の方が真っ赤に見えました。表の通りを当時、区長だった中村重雄さんが「甲府が空襲だ、早くみんな逃げろ」と、声をかけて走っていました。
 あわてて飛び起きて、光幸をおぶい、みのぶとん一枚を頭からかけて逃げました。母親も体が弱かったので、父がおぶい、家族みんなで保雲寺橋の近くにある水門の中へ逃げていきました。ところが、私たちが着いたときには、水門の中は人が一杯で、中に入れず、そうこうするうちに、雨が降ってきました。雨も普通の降り方ではなく、ものすごいどしゃ降りで、川の中はたちまち水が増えてきて、いられなくなりました。            土手に上がってみると、古道のほうが真っ赤に燃えていました。その時の気持ちは言いようのないものでしたよ。雨よけをする場所もなく、みんな土手の近く(いまの千野さんの家付近)にあった川口かく代さんの家の軒下に入れてもらいました。そこには、おおやけどをしていた平岡さんの二人の娘も、痛い痛いといいながら、平岡のおじさんにかかえられていました。
 みんなで「しっかりしよしよ」と声をかけてやりましたが、ほかに手当てのしようもなくかわいそうなものでした。とくに妹さんはひどいやけどで、見ていられないほどでした。次の日に亡くなったと聞き、助けてやれなかったことを悔やみもしました。
 雨のおかげで、火災の火も消え、家のほうへ向かいましたが、古道のほうは全滅といってもいいほど、焼け落ちており、私に言えも2階のおもやも物置も牛小屋もみんな焼け落ちていました。かわいそうだったのは、牛小屋の牛と山羊でした。牛は当時で千円もしたいい牛でした。農作業に使う朝鮮牛で、父が自慢にしていたもので、よく働きかせいでくれていました。
 あの日も、のちに社会党から代議士になった別田の松沢一さんの田んぼをすきにゆき、次の日の仕事も残ったので、松沢さんから「牛はうちで預かっているから、おいていってはどうか」といわれたのを、大事な牛だからといって、父は連れて帰ってきたそうです。その牛も焼け死んだうえ、体の弱かった母の栄養源となっていた、乳のたくさん出ていた山羊も一緒に焼け死んでおり、本当にがっかりしてしまいました。「こんなことになるなら、松沢さんのいうとうりにしておけばよかった」と、父も腰を抜かしてしまうほどでした。
 はし1本残らない丸焼けぶりでしたが、笑うに笑えないおかしなこともありました。それは夫の妹の幾久江さんが、もって逃げたゆたん(繭を入れる大きな袋)のことです。いつも何かあった時の準備として、うちでは2本のゆたんを用意しておき、一方に大事なものを入れておき、もう1本は呼びにしておいたものでした。持ち出すのは幾久江さんの担当でした。なんとあの夜持ち出したのは空のほうで、しかもゆたんのなかには米びつから空の1升ますだけ入れて逃げ出したのです。あとで「自分でもどうしてあんなものを持ち出したのかわからない」といっていましたが、あわてると何がなんだかわからなくなるですよね。
 住むところもなくなり困っていたところ、金井晴雄さんの物置を貸してくれたので、ここに住みました。父が、ばくろうという牛や馬の売買をする商売をしていたので、顔がひろく、窪平から3万5千円の家を買ってきて、空襲の次の年に建てたのが、いま住んでいるこの家です。
 あのときは、貯めておいた貯金も通帳が焼けてしまって下ろせなかったり、ひどい目にあいました。あんな思いはもう二度としたくありませんね。いまでは平和にゲートボールなどして元気に暮らしていますが、家族もつぎつぎ亡くなってしまい、私もいい年になってしまいました。

 「家の回りは爆弾の跡」・・・・                  水野繁子

 当時、私は23歳で家には、父親の栄造、母のむつの、祖母のハツ、それに戦争で負傷して帰ってきていた兄の善明、ほかに疎開できていた姉の子が二人おりました。みんなで7人いたわけです。住んでいたのは、いまの所とはちがい、平岡商店の西のところで現在の窪田電設のあたりでした。
 実はあのころ、瓦屋根の家とわら屋根の家と2戸があり、兄がひとりでわら屋根のほうに住み、私たちみんなは瓦屋根のほうにいました。サイレンで空襲を知り、最初は防空壕に入って甲府のほうが焼けているというので、のんきにも西の空の方を眺めていたものでした。
 そのうち、このあたりにも焼夷弾が落ち始め、大変なことになったと知りました。だれかが「暗いほうへ逃げろ」というので、私は助け声をあげながら、鎮目一さんのお蔵のほうへと逃げて行きました。逃げる前に、父たちが言えの中から荷物を外に投げ出していました。
 逃げるさいには、みんなばらばらになってしまいました。後で聞くと、母が預かっていた2人の子供をつれて保雲寺のほうに逃げていたということでした。私もどこをどう逃げたのか、気がついたときには雨でびしょぬれになって、家の前にいました。瓦屋根のほうの家は残っていましたが、兄の住んでいたわら屋根の家は焼け落ちていました。それにせっかく父たちが、外に放り出した家のなかの着物や布団がびしょぬれになってしまいました。「家のなかにそのままにしておけばよかったなあ」と、父がなげいちました。笑うにも笑えぬ思いをしたのを今でも思い出します
家の回りには、いくつか大きな穴があいており、爆弾の跡だと皆がいっていました。家が1戸でも残ったのは、奇跡のようなものでした。朝方になってから、南のほうで大きな音がしました。なにかが爆発したのではないかと、家の人たちと話し合っていると「甲谷さんの近くの家に落ちていた爆弾が、爆発した」とだれかが教えてくれました。家の付近でも不発弾が爆発するのではないかと、何日も不安な日々を過ごしたものでした。寿命が縮まるとは、ああいう時の事を言うのでしょうね。本当にこわい思いをしたものでした。

 「実家の田植えにいっている留守に」・・・・           窪田ちゑこ
あの日、私たち夫婦は、私の実家である石和町(当時は岡部村)山岸の瓦屋へ、田植えの手伝いにいっていました。私の兄が兵隊で出征していて家にいなかったので、実家も人手不足だったのです。次の日も田植えの予定があったので、その夜は夫も泊まることになり、実家の2階で寝ていました。
すると、空襲のサイレンとともに、西の窓がぱっと明るくなってきました。窓を開けてみると、甲府のほうが真っ赤になって燃えていました。「大変だ、空襲だ」と騒ぎになり、実家の人たちと家の庭にあった防空壕のなかに逃げ込みました。その時は、鎮目のほうまで爆弾が落ちたとはまったく知らずにいました。
 朝になってから、家のだれかが、「滝田ゴム(現在の大洋物産)のほうが燃えていた」といい、そのうち「鎮目のほうも空襲でやられたらしい」と知らせがありました。いまのように、電話もない時代でしたから、わずか1キロ先のことも、人ずてでないと分からない時代でした。
田植えどころでなく、急いで夫と鎮目に帰ってきました。山崎のへんでも、火事場のあとがあり、まだ煙の出ている家もありました。まさか私の家は田圃のなかにあったので焼けるようなことはない、とひそかに思いながら帰ってきました。すると、学校(いまの坂下中)の前にあった梅の屋(そのころは、通称でうめのやんと呼ばれていた)のおばさんが、私たち夫婦をみて「金太郎さんの家もまる焼けだよ」と教えてくれました。
腰が抜けてしまったような足取りで、家に帰り着きました。平岡さんの付近や、古道のほうも大変焼けてしまったのを知りました。そして私の家もきれいさっぱり、焼けてなくなっていました。父が朝鮮牛1頭だけつれて逃げ出した、と聞きました。この牛があとでたいした働きをしてくれたのです。
あのころ、家族は、祖母たき、ちち・栄造、母・かずの夫婦と夫の妹・春江と私たち夫婦の6人でまだ子供はありませんでした。結婚してまだ2ヵ月のことでした。実家から貰ったばかりのタンスや衣類もすべて灰になってしまいました。その後、また貰ったので、2度も嫁入り道具を貰ったことになりました。
家がなくなったので、家族は髀ケ寺を借りて住みはじめました。父が連れ出した牛が活躍しだしたのはそれからです。まず自分の家の田をすいて田植えをすませました。するとほうぼうから「田をすいてほしい」という声がかかり、父と夫とであちこちと田すきで稼ぎにゆきました。甲府の桜井のほうまで行ったということです。秋になると、山の木が引き出せることになり、ここでもその牛がおおいに役立ち、11月には山から出した材木で物置小屋をたてることができ、寺から引っ越してきました。
山の木を出す時には、他所の家の分まで出してやり、ここでもこの牛が稼いでくれたわけで、おおげさにいえば、我が家は牛で食わせてもらった、といえるほどでした。それからはまた瓦づくりをしてここまで来たわけですが、あんな思いはもうこりごりです。

 「残ったのは牛小屋と便所だけ」・・・             川口住野
あの頃、私は、いまのカネボウといっていますが、当時、岡部製糸といっていた製糸会社へいっていました。会社では、落下傘につかう傘やひもを作っていました。あの日も仕事から帰ってきて、夕食のあと寝ていましたが、「空襲だ、みんな起きろ」と父が家族を起こしていました。当時、私のところは、両親と子供が5人おりました。家は、鎮目さんの東隣りにあり、裏には大きな柿の木やビワの木がありました。
外に出てみると、あちこちに爆弾や焼夷弾が落ちて火事になっていました。北のほうの窪田金太郎さん、いまの金広さんの家がさかんに燃えているのがよく見えたのを覚えています。家族みんなで、青梅街道を上に登り、神沢武重さんの家のところの狭いわき道を抜けて東田圃といわれていた、今のゲートボール場の辺りにあった麻畑のなかに逃げ込んでいました。
まもなく雷や稲妻が走って、ものすごい雨が降ってきました。かなりがまんしていましたが、水が腰のへんまできてしまい、みんなで家へ帰ってきました。するとあたり一面まる焼けでびっくりしてしまいました。
当時の私の家は、平屋のわらぶきでしたが、畳の間が6つと土間がかなりあり、それに12間のひさしがかかっており、このなかには1軒分建つくらいの材木が積んでありました。そおの平屋とひさしの材木までがみんな焼けてしまい、残っていたのは、東側にあった牛小屋と便所だけでした。
次の日から牛小屋を改造して、親たちがここに住むことにして、私たち子供は親類の川口義澄さんのところを借りて住むようになりました。今思えば、よくあんな牛小屋を改造した部屋で親たちは暮らしたものだと感心してしまいます。
家では米や麦を作っており、供出もしていませんでしたので、食糧に困る様なことはなく、大根めしやジャガイモをすったスイトンなんかを食べたのを思い出します。いまでもスイトンなんかたべてみたいと思うこともありますが、あんな戦争の犠牲になるのはまっぴらごめんと言いたいですね。もうあんな生活はこりごりです。
3人が眠る保雲寺全景、皆が逃げ込んだ保雲寺の水門、大火に襲われた古道通り